2015年5月23日土曜日

電車、扉、外の人

2015年5月22日(金)夜の話です。

電車が停車して降りようとしたら扉の外中央に見すぼらしい中年男性が立っていて乗り込もうとしました。
突き飛ばそうかと思ったのですが、じっと立ち止まってにらむにとどめました。

駅員も、扉の前を空けてお待ちくださいという放送をしなくなったのでしょうか。

しかし、日本人として恥ずかしい話でした。



2015年5月16日土曜日

職人の技展

2015年5月8日(金)、15日(金)、大阪上本町近鉄百貨店で「職人の技」展を見ました。

昨年は、
似た表題の記事を6月15日にアップしています。

昨年話し込んだ方にも再会しましたが、退職年金生活者としては何度も同様の品を購入するわけにもいきませんから、お邪魔しない程度に声をかける程度でにとどめて失礼ました。

今年は、販売価格が高騰していました。
昨年6000円強で購入した商品と同等の作品が10000円を越えていました。
数十万円の高価な展示物もありました。

聞きますと、この間のデフレ脱却と円安で材料費が高騰しているそうです。

作る人の立場になるとその価格は了解できるのですが、購入する立場からはとても支払えない価格なのです。
こんな状態が続くと、「職人の技」が消えていくのではないかと心配になります。

そんな気分で歩いていると、木製の万年筆や鉛筆補助軸のコーナーを見かけました。
今までお会いした中で、最も細い製品を作られる木工轆轤さんです。

ウェブで検索するとサイトをお持ちのようですので、そちらのURLをリンク付きで貼っておきます。

https://www.pen-house.net/brand/brand0228.html

価格も、轆轤で手作りしたものとしては、かなりリーズナブル。
10年前ならとびついたことでしょう。
今、私は、コンピュータやタブレットに頼っています。
どうしても手書きが必要な時は、筆ペンなのです。
そして、もっと惜しいことに、私が求めているコンテ鉛筆の補助軸は作っていらっしゃらなかったのです。

鉛筆は、私の測定では約7.2ミリですが、あるサイトによりますと8ミリ以下だそうです。
http://www.pencil.or.jp/index.html
http://www.pencil.or.jp/pencils_jis/jis_6.html

そして、私がほしいコンテや木炭を芯にした鉛筆は、私の測定では約8.2ミリなのです。

閑話休題。

轆轤の話しているうちに、私のブログをお知らせしても良いという話になりました。

この機に轆轤に関する記事の整理をしても良いかなと考えました。
というわけで、以下は、轆轤に関するリンク集です。

こんなことを私が調べ始めたきっかけは、マトリョーシカでした。
私は、様々なマトリョーシカの産地を見てきたのですが、最も印象深かったのはポールホフスキー・マイダンでした。
というわけで、まずポールホフスキー・マイダンに関する記事にリンクを貼ります。
http://youkaimamoru.blog.jp/archives/40203021.html

ポールホフスキー・マイダンは、轆轤の里ですが、元マトリョーシカ博物館長(故)サラヴョーヴァは、キリスト教を禁じたソ連当局が見逃すほどの僻地だと書いています。
人口2000人程度の村ですが、ほとんどの住人がマトリョーシカをヂ希有芯とする轆轤細工に関係しているという村です。
訪問記録は、上の記事の前後にいくつか書きました。
訪問決算のページにもリンクを貼っておきます。
http://youkaimamoru.blog.jp/archives/40195204.html

マトリョーシカは、1890年頃、(早くても1898年)にモスクワで誕生しました。
最初のマトリョーシカが作られた跡地には、最近までマトリョーシカ博物館がありました。
(URLを示してリンクを貼ってきましたが、ここからは文中の単語にリンクを貼ります。)

ここで最初のマトリョーシカが作られたとき、日本の七福神がモデルになったという説があります。
この時にモデルになったという箱根入れ子七福神は、2体失われ5体の状態で、セルギエフパサードの玩具博物館に展示されています。

マトリョーシカは、モスクワで誕生したのですが、ここは見本工房。1900年パリ万博で銅メダルを受賞し注文が殺到するようになると、モスクワ北方約70㎞にあるセルギエフ・パサードがマトリョーシカ生産を担うようになりました。
しかし、最近ここの工場の轆轤細工は、旅客に作る過程を見せる程度に縮小しているように感じられます。

順番から言うと、セルギエフ・パサードで大量生産されるようになった後、マトリョーシカは、モスクワから数百㎞東にあるニジニノブゴロド州で作られるようになりました。

ニジニノブゴロド州中心ニジニノブゴロド市北方約100㎞にセミョーノフという伝統的な木工の街があります。
さらに20㎞ほど北へ行きますとメリノヴォという村があって、1922年にマイヨーロフという木工轆轤職人がセルギエフ・パサードのマトリョーシカを持ち帰ったと言い伝えられています。

セミョーノフに戻ります。
ホホロマ(ホフロマ)というラッカーウェアが有名なのですが、ここでマトリョーシカを大量生産しています。

正確な年代はわからないのですが、多分1940年頃、マトリョーシカは、ニジニノブゴロド州の南方にあるポールホフスキー・マイダンでも作られるようになりました。

その後、更に北東にあるキーロフ州でもマトリョーシカが大量生産されるようになりました。

さらに北東、ノヴォシビルスクの近く、ムヴォクズネツクにも工場があるという話なのですが、ここは、まだ訪問できていません。

さて、日本側の事情です。

マトリョーシカのモデルになったと言われている箱根入れ子七福神は、現代にも引き継がれています。残念なことに後継者がいないので、多分、最後の作家ということになるのでしょう。

また、マトリョーシカそのものは特許があるわけではないので、木工轆轤があれば誰でも作れるでしょう。ただ、職人の法則で述べたように、小規模に個人で作れば、とてもじゃないが今売られているような安価な価格で売ることはできないと思います。
こけしの産地鳴子でも入れ子七福神を見かけましたが売り物ではありませんでした。

鳴子では、轆轤の歴史に関する画像を入手できました。

轆轤細工は、発祥の地があります。
あきらかにそれ以前に作られた作品が発掘されているのですが、精神的にはこの地が発祥の地なのだそうです。

轆轤は主に碗を作ったようです。
この碗がどのようにマトリョーシカになるかというのが、このページ最後の問題です。

まずは、修行僧用、入れ子携帯食器、応量器です。

江戸時代、農民が豊かになり、温泉旅行が流行ります。
温泉側では、土産物が作られます。
こうして、天保年間(1844年頃)信濃屋亀吉という人が、応量器を発展させてというか遊び心というか、入れ子12卵を作りました。
これが入れ子七福神に発展し、モスクワにもたらされてマトリョーシカ誕生時のモデルになったと言われています。

尤も、リンクを貼ってきた私のページでも触れていますが、ロシアも日本も轆轤細工で入れ子卵やりんご型の器のような物を作っています。入れ子七福神やマトリョーシカが伝播したものか、それぞれが似た者を作ったのか、厳密にはわかりません。
長くなったので、ここではこれ以上深入りしません。
この程度にしておきます。












2015年5月14日木曜日

ボンマルシエ

竹久夢二とロートレックの展覧会の思い出を書いていて気になったことをここに書きます。

ボン・マルシェ百貨店(ボン・マルシェひゃっかてん、Le Bon Marche)はフランス、パリ7区のバック通りにある百貨店。世界最初の百貨店と言われている。

ウィキペディアからの引用です。
もう少し引用を続けます。

もともとは1838年にヴィドー兄弟が創業した[1]パリの流行品店(生地屋)のひとつだったが、1852年にオルヌ県の帽子屋の息子であったアリスティッド・ブシコー(Aristide Boucicaut)によって買い取られ、夫人マルグリット(Marguerite)とともに、バーゲンセール、ショーケースによる商品の展示、値札をつけ定価販売を始めるなどの百貨店としてのシステムを確立、発展していった。また返品を認めるなど~、小売店の社会的地位を高めることにも貢献した。

続いて三越です。
同じくウィキペディアから引用

江戸時代の1673年(延宝元年)に「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせた、呉服店の「越後屋」として創業。~
現在の商号「三越」は、三井家の「三井」と創業時の「越後屋」からとったもので、1904年に「合名会社三井呉服店」から「株式会社三越呉服店」へ改称した際からのものである。~

こうして比べると、随分日本の方が早いのですね。




2015年5月12日火曜日

琳派

京都文化博物館
現代作家が、それぞれの琳派を解釈して、自分の作品を発表する展覧会。
陶芸
inlaid
英語表記があるのに日本語訳がない。
ここの学芸員は不親切でなければバカだ。

展覧会そのものは、良かった。

下の常設も悪くは無いが、子供の学習にに寄与するという意味では、大阪歴史博物館が上。



2015年5月10日日曜日

記録

最近の見学記録

2014年8月5日(火)~2014年9月28日(日)
デュフィ展
http://www.aham.jp/exhibition/future/dufy/

2014年10月18日(土)京都国立博物館、鳥獣戯画巻(古)
http://chojugiga-ten.jp/news/
Web絵巻~http://chojugiga2015.jp/emaki/
高山寺 公式ホームページ
http://www.kosanji.com/chojujinbutsugiga.html

2014年10月19日(日)ハルカス美術館、新印象派展
http://www.aham.jp/exhibition/future/neo-impressionism/

2014年10月28日(火)「あ」グループ展
2015年1月27日(火)阿倍野ハルカス、高野山の名宝
オフィシャルサイトhttp://www.aham.jp/exhibition/future/kouyasan/pdf/kouyasan_PR.pdf
画像のあるサイトhttp://blog.goo.ne.jp/v_goo_kazu_san/e/bbd07b867fbd915185d7c825393c78db

2015年4月6日(月)郡山上、柳沢文庫

2015年4月26日(日)京都国立西洋美術界、現代美術のハードコアは実は人類の宝である展
ポスターも入場券もマーク・クイン。会場内はポップアートの平面作品が中心。
ヲンディ・ウォーホルのテーマが死であることがよくわかる。
リキテンシュタインも懐かしかった。
http://matome.naver.jp/odai/2140351069499320801?page=2


~京都国立博物館、狩野派
http://kano2015.jp/highlight.html

2015年5月5日(火)姫路城、興福寺北円堂、無着
姫路城 公式 http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle/
興福寺 検索 http://www.kohfukuji.com/property/search.html
興福寺の画像公開はすごい。

2015年5月10日(日)魔女の秘密展、大阪歴史博物館

竹久夢二と横山大観を見たのだが、時期も含めて思い出せない。
竹久 夢二(1884年(明治17年)9月16日 - 1934年(昭和9年)9月1日)
横山 大観(1868年11月2日(明治元年9月18日) - 1958年(昭和33年)2月26日)
画像は、直接名前で検索する方が良い。

その都度記録しなければいけない

とほほ

ついでにその後のメモです。

2015年5月13日(水)奈良礼賛
東大寺戒壇院月光菩薩木彫模刻はじめ、廃仏毀釈以後の保存・復旧運動。
手の折れた阿修羅の写真が痛々しい。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/22/











姫路城

5/5、白すぎる姫路城を観た。
乾小天守、西小天守が修理対象外なので、見比べると修理直後の天守の白さがよくわかる。



大阪歴史博物館

5月10日(日)、天保山からの帰路、谷町4丁目で下車。歴史博物館に立ち寄る。
常設企画併せて1000円。
これは良い。
中高生の歴史学習にとても良い。

魔女の秘密展

魔女の秘密展を観た。
挨拶文末に、ドイツの関係者の名前はあるのに、日本側主催責任者名が無い。
この無責任さが日本をダメにする。

constipation

連休に大したことをしたわけでも無いのにブログネタがたまった。
たまるとconstipation と言う単語が頭に浮かぶ。
constipation とconstitution 2字違い。
どうしてよく似ているのでしょう。

とまれかくまれ。
書きまくろう。